FAKE −18−
 直之はちらっと後ろを振り返り、弁護士をうながした。
「えー、それでは、亡くなられた前久川男爵未亡人、慈乃様の遺言状を読み上げさせていただきます」
 弁護士はここぞとばかりに胸をはり、短い文章を読み上げた。
「私、久川慈乃は、全私有財産及び久川財閥に関するすべての権利を、ただひとりの孫娘に譲るものである。――以上です」
 ただひとりの孫娘。……孫娘。
 その言葉を、桜子は何度も胸の中で繰り返した。
「この場合の孫娘とは、嫡出の桜子嬢の死亡が確認されている以上、庶出の多恵嬢以外にはあり得ない」
 静かに、直之は言った。
「きみに残された道はふたつにひとつだ。あくまで久川竜一郎本人であると主張するならば、梅毒感染と廃嫡の事実を受け入れ、潔く周南侯爵の罰を受けたまえ。さもなくば、故人の名を騙った偽者として、今すぐ那原を立ち去るかだ」
 竜一郎は口を開いた。が、その唇はひくひくとふるえるばかりで、声はなにも出てこない。
 そのまま竜一郎は崩れるように床の上に座り込んでしまった。がっくりとうなだれ、そのまま立ち上がることもできない。
 一回りも小さくなってしまったようなその姿を、誰もが無言で見下ろしていた。





 竜一郎は、自分が率いてきた男たちに左右から抱えられ、久川別邸を出ていった。
 正門を出ても、彼らが竜一郎に付き従うかどうかはわからない。あの男たちが何を言われて竜一郎に従っていたかはわからないが、おそらくは敗残者となった竜一郎をもう相手にはしないだろう。
 入れ替わりのように、集落の駐在が顔を出す。
「あのぉ、こちらのお屋敷でなにやら騒動があったっちゅうお話ですが……」
「その件でしたら、もう大丈夫ですわ」
 にこやかな笑顔の令嬢に出迎えられ、駐在は狐につままれたような顔をした。
「わたくしの死んだ兄の名を騙る者が現れましたが、すぐに嘘がばれて逃げ出しましたわ。奉公人たちもたいそう心配してくれまして……。ですが、久川の名に関わることでもありますから、あまり大騒ぎしてはいけないと、みなに申しきかせていたところでしたの」
「はあ――」
「駐在さんにもご足労をかけてしまいましたわね。知らせに走った者も、久川家を大事に思ってのことです。その忠義に免じて、大目に見てやってくださいまし」
 美しい令嬢に優しくほほえみかけられ、駐在はたちまちでれっと鼻の下を伸ばした。
「いや、まずハァ、なにごともなぐて良かったですなあ」
「はい、ありがとうございます」
 軽く頭を下げる令嬢は、怖ろしい事件に巻き込まれかけた衝撃か、まだ少し青ざめ、目元はうっすらと赤い。
「お嬢様、そのお部屋着ではお寒うございましょう。お召し替えなさいませ」
 後ろから女中頭が手を添えて、令嬢を促す。
「ええ、そうね」
 令嬢はうなずき、駐在にもう一度にっこりと微笑みかける。
「そろそろ小時半ですわ、駐在さんも、せっかくいらしてくださったんですもの、ご一緒にお茶でもいかがですか?」
「は、そりゃどうも。では遠慮なぐいただきます」
「したら駐在さん、こっちさどうぞ。おいしいお菓子もあります!」
 りんごのような頬をした若い女中が、にこにこと手招きをする。
 こんなお相伴にあずかれるなら、田舎の砂利道を自転車こいでやってきた甲斐もあったと、駐在は相好を崩しながら台所へついていった。
「誰か、応接室と喫煙室を掃除しなさい。ちりひとつ残さないよう、徹底的にな」
「はい!」
 吉沼家令の指示に従い、女中が三人ばかり応接室へ飛んでいく。
 ほかの者も、農場や庭など、それぞれいつもどおりの仕事場へ戻っていった。
 屋敷の中に活気が満ちてくる。
 その中、とよに肩を抱かれるようにして、桜子はゆっくりと階段をあがっていった。
 自分の部屋に入ると、すでにほうろうの洗面器にあたたかいお湯が用意されていた。顔を洗い、埃がついた髪を拭いて、とよの手を借りて着物を着替える。
「大奥様を偲ばれるお気持ちはわかりますけれど、今日くらいは少し明るいものをお召しなさいませ。そのほうがきっと、大奥様もお喜びですよ」
 そう言ってとよが選んだのは、はなやかな模様銘仙の長着だった。紅色が胸元から足元に向かって裾濃になる中に、胡蝶の柄がモダンなアールデコ調にデザインされている。その上に同じく模様銘仙の長羽織を重ね、帯は黒地に金刺繍の丸帯をお太鼓に結び、半襟と帯揚げは流行の新橋色。
 髪はとよが丁寧にくしけずり、若い娘に似合いの廂髪に結って、羽織と共布のリボンを飾る。
 鏡台を眺めると、そこには少女雑誌のグラビアから抜け出してきたように美しい令嬢の姿が映っている。頬は幾分青ざめてはいるものの、きらめく黒曜の瞳、小さくつぐんだ花びらのような唇は、見る者を魅了せずにはおかない。
「ようございました、お嬢様。もう何も心配はいりません。あたし達のお嬢様ですよ……!」
 女中頭は、まるで自分の娘のように、桜子をしっかりと抱きしめた。
「ええ。ありがとう、とよさん……」
 桜子もその丸い肩にそっと頬を寄せる。
 自分を抱きしめてくれる、このぬくもり。優しい手。このあたたかさを失わずに済んだのだ。そう思うと、身体の芯からじんと熱いものがこみ上げてくる。
「いやね。私、また泣いてしまいそう……。いつからこんなに泣き虫になったのかしら」
「良いんですよ。嬉しい時には、いくらお泣きになったって」
 その時、
「お嬢様、お支度はお済みでしょうか」
 控えめなノックとともに、女中が顔を出した。
「一階のサンルームで、加藤先生と阿久津様がお待ちでございます」
「わかりました。すぐに参りますとお伝えして」
 付き添おうとしたとよを断り、桜子はゆっくりとサンルームへ向かった。
 サンルームはステンドグラス越しに明るい陽光が差し込み、床に美しい光の模様を描き出していた。
 その中、弁護士は藤の椅子に腰掛け、直之は窓辺に立って無言で庭を眺めていた。
 桜子が室内に入ると、直之は一瞬ちらっとその姿に視線を向けたが、またすぐにガラス窓のほうを見てしまい、言葉をかけようともしなかった。その横顔はどこか屈託したものを抱え、身体の奥底の鈍い痛みをじっと耐えているようにも見えた。
「お待たせいたしました」
「いいえ。お疲れのところ、申しわけありません」
 加藤弁護士は椅子から立ち上がり、桜子に軽く一礼した。むしろ彼のほうが目の下に濃くくまが浮き、疲れているように見える。
「どうしてもお渡ししなければならないものがありまして。私が亡くなられた前男爵夫人よりお預かりした書面は、遺言状のほかにもう一通あるのです」
「書類が、もう一通?」
「はい」
 弁護士はおかけくださいと手で桜子をうながし、鞄から白い封筒を取り出した。
「お祖母様からあなたに宛てたお手紙です。ご存知のとおり、慈乃様は晩年、お目が不自由でいらしたため、私が口述筆記をいたしました」
「お祖母様の……」
 ふるえる指で封筒を開ける。
 そのとたん、ふわりと優しい薫りがほのかに立ちのぼった。慈乃がいつもハンケチなどに焚きしめていた薫りだ。
「桜子さんへ――」
 桜子は、かすれる声でゆっくりと文字を読み上げた。
 ひとつひとつの文字が、慈乃の声となって聞こえてくるような気がした。慈乃が自分のすぐそばにいて、あの優しい落ち着いた声で、語りかけてくれているような気が。
 ――桜子さん。あなたがこの手紙を読んでいるということは、わたくしはもう、この世にいないのでしょう。
 あなたの将来を考えて、わたくしにできるすべてのことをやっておきます。今後のことは、加藤先生によくご相談なさい。
 わたくしの遺したものを受け取るのに、あなたはなんら恥じることはありません。あなたがわたくしの孫であることは、疑いようのない事実なのですから。
 ねえ、桜子さん。あなたとともに過ごせた時間は短かったけれど、わたくしはとても幸せでしたよ。
「ええ……。ええ、お祖母様。わたくしも、お祖母様と一緒で……とても、とても幸せでした……!」
 ――桜子さん。わたくし達は家族でしたね。ともに過ごした時間は短くとも、わたくし達は本当の家族でした。
「はい……。はい、お祖母様……っ!」
 あなたの名前が桜子であろうと、多恵であろうと、そんなことは些細なことです。名乗る名が違ったところで、あなたの本質に何の違いがあるでしょう。
 あなたはあなたです。わたくしのいとしい孫です。
 わたくしが世界中に向かって自慢したい、勇敢で賢い、大切な娘ですよ。
 あなたをひとり残していくのは、心残りでなりません。けれどこれも世の摂理です。先に逝く者をいたずらに嘆いてはなりません。
 これからは、あなた自身の手で、幸せの苗を植え、育てるのです。
 あなたにならできるはずです。あなたは、冒険商人久川敦の孫。その誇り高い魂を受け継いだ唯一の人間なのですから。
 自らの手でしっかりと自らの船の舵を取り、帆をあげて、進んでいきなさい。
 暗闇に迷ったら、思い出しなさい。わたくしがいつでもあなたを愛していることを。
 わたくしはいつでも、あなたを見守っていますよ。
「……わたくしのいとしい桜子さんへ……。祖母より……」
 涙があふれた。
 几帳面な文字で埋まった便せんが、もう見えない。
 お祖母様。私の嘘を承知で、私を愛してくださったお祖母様。
 私はあなたを失ったわけではないのですね。あなたはこれからもずっと、私のそばにいてくださるのね。
 ありがとう、お祖母様。
 大好きよ。大好きよ、お祖母様……!
「このお手紙は、慈乃様が亡くなられる半月ほど前に、私が口述筆記したものです」
 読み終えた手紙を抱きしめ、声もなく涙を落とす令嬢に、弁護士は落ち着いた声で話しかけた。
「さきほどご説明いたしましたとおり、あなた様――えー、多恵様の遺産相続に関しましては、なんの問題もございません。すべて慈乃様のご遺志どおりに手続きをいたしました」
「それなのだが、加藤先生」
 それまでまったく無言だった直之が、ふと口を挟んだ。
「彼女の名が多恵であると公表すれば、やはりそれなりの騒ぎが起きてしまうだろう。竜一郎君を廃嫡した経緯も明らかにせねばならないし、周南侯爵家の名誉にも関わる問題になってしまう。やはりこの件はおおやけにせず、表向き彼女は久川桜子のままで通したほうが良いと思うのだが」
「はい、それも問題はございません。戸籍に登録してある名と、通称として使う名前が違うという方は珍しくありませんし、折を見て戸籍の名も改名ということも可能です」
「真実は明らかにしないほうが良いこともある。この屋敷で働く者たちも、それは良くわかっているだろう」
 表向き、三沢多恵はあの震災で死亡した。那原の久川別邸にいるのは、久川桜子。今まで久川家と交際していた上流階級の家々も、何も知らないまま、以前と変わらない友誼を保っていくだろう。
 ――昨日となにも変わらない。なにも起きなかった。
 加藤弁護士は、そのほか確認が必要な書類を何枚か桜子に提示し、署名捺印をもらうと、すっきりした笑顔で立ち上がった。
「これで私の仕事は完了いたしました。今後、なにか問題がございましたら、いつでもご相談ください」
「はい、ありがとうございました」
 一礼すると、弁護士はそのまま荷物をまとめ、サンルームを出て行こうとした。
「先生もお疲れでしょう? どうぞ今夜は我が家にお泊まりくださいまし」
「いや、そうもいかんのですよ。事務所にまだ仕事が山積みでして。昨夜、いきなりこちらの紳士に連れ出されて、事務員達にもなんの指示もしておりませんでしたからな」
「いきなり……?」
 弁護士は苦笑した。直之は少し照れたような表情で、あさってのほうを向いてしまう。
「まあ、こういう緊急の事態でしたからな。間に合って良かった」
 たしかに、加藤弁護士の到着がもう少し遅れていたら、取り返しのつかない事態になっていたかもしれない。桜子が警察に引き渡され、すべての事実があきらかになってしまっていたら、たとえ法的に桜子の身分が保障されても、久川家の家名は泥にまみれ、社交界に復帰することは不可能だっただろう。財閥の業務にすら悪影響が出るかもしれない。
 それでは、と加藤弁護士は頭を下げた。
「はい。先生、本当にありがとうございました」
 桜子は玄関ホールまで出て、弁護士を見送った。
 扉を開くと、久川別邸の庭は明るい陽光にあふれ、春の花々が咲き乱れていた。風がふくたびに甘い香りが鼻先をかすめ、桜の花びらが雪のように降ってくる。振り返れば、わずかに残雪をいただく沼原連山、その主峰、雄臼岳が機嫌好さそうに青空へ噴煙を立ち上らせていた。
「ここは、良い土地ですね」
 しみじみと、まるで独り言のように加藤弁護士が言った。
「はい」
 桜子は短くうなずいた。
 ここが私の故郷。お祖父様とお祖母様が愛し、そして私の愛する場所。
 わたくしの生きていく場所。
 今度こそ、守ってみせる。この美しい大地と、ここに生きる人々を。慈乃が久川家の大刀自としてそうしていたように、今度は自分がその役目を引き継いでいくのだ。
「今度はお時間のあります時に、ぜひ我が家にお泊まりくださいませ」
「はい。それでは狩猟の時期にお邪魔させていただきたいですな。実は、鳥打ちが趣味なのですよ」
 加藤弁護士は中折れ帽を持ち上げて粋な挨拶をすると、久川家の馬車に乗り込んだ。
 車寄せにはまだ、直之のパッカードが停められている。
 ぴかぴかに磨かれていたはずのボディは土埃にまみれ、タイヤも泥だらけだ。荒れた山道を無理に突っ走ってきたことがわかる。
 この自動車で、直之はどこまで弁護士を迎えに行ってくれたのだろう。不眠不休で夜行列車を乗り継ぎ、東北本線の駅からこの屋敷までは、自分で車を運転して二十数キロを飛ばしてきたのだろう。
 直之は昨日、竜一郎の姿を見たとたん、すべての事情を察して、最後の切り札を取りに東京まで向かったのだ。竜一郎の病気感染の事実などは、おそらくその以前から調べ上げていたに違いない。
 ――それは、お祖母様に頼まれてのことだったのかしら。それとも……。
 もしも彼が私のために、自らの意志で懸命に東京中を走り回ってくれたのだとしたら。そんなことをしても、なにひとつ見返りは得られないのに。
 ――どうして? どうして、そんなことをしてくれたの?
 弁護士を乗せた箱馬車が、ポプラ並木の馬車道を走り出す。その車体が正門へ向かうのを見送って、桜子は屋敷の中へ戻った。
 廊下を抜ける途中で、銀のワゴンを押していたとよとすれ違う。
「とよさん、それ、サンルームの阿久津様にお持ちしたお茶じゃなくて?」
「ええ。お茶のお代わりをと思ったんですが、もうお帰りになるとおっしゃられて……」
「帰る?」
 その言葉を聞いたとたん、桜子ははじかれたように長い廊下を走り出した。
「あ、お嬢様!」
 とよが呼び止めようとするのも、まったく耳に入らない。
 ――このまま、彼を行かせるわけにはいかない。
 だって私は、まだ「ありがとう」も言っていない。
 私……、私、本当のことをなにひとつ、彼に告げていない!
 桜子は息を切らし、サンルームに飛び込んだ。
「おや……」
 直之が振り返る。
 彼は、小さなステンドグラスが飾られた木製の扉を開け、庭へ出ようとしていたところだった。
「見つかってしまったな。黙って出ていこうと思っていたのに」
「なぜ……」
「なぜ?」
 直之は桜子の問いかけを繰り返し、くすっと笑った。
 だがその笑みは、今まで見たことのない、淋しげなものだった。
「俺の役目は終わった。きみはもう、俺のようないかがわしい人間と関わっちゃいけない」
「直之さ……」
「心配することはないさ。俺はこのまま、上海へ帰る。二度と日本へ戻ってくるつもりはない」
 ――え?
 桜子は一瞬、直之が何を言っているのか理解できなかった。
「もともと俺は、生粋の日本人じゃない。こんなちっぽけな島国で暮らそうってこと自体、無理な話だったんだよ。日本の株式市場や先物取引でだいぶ稼がせてもらったが、風当たりもきつくなってきたからな。そろそろ潮時だと思っていたんだ」
「そんな……そんな、急に――」
 かすれる声は、まるで病人のうわごとのようだった。
 ――なにもこんな時に、いきなり言い出さなくたっていいじゃない。
 あなたはまた、私を見捨てていこうというの!?





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