FAKE −5−
 この揺れで、本震をかろうじて耐えた建物も、ついに倒壊した。
 屋根瓦がばらばらと落ちてくる。まるで家が自分で振り落としているみたいだ。窓ガラスが内側からはじけるように割れ、破片が勢い良く飛び散る。柱や梁が折れ、壁が裂ける。
 鼓膜を突き破るほどの轟音は、もはや何の音かもわからない。
 視界がなくなるほどの砂埃とともに、二階建ての広い屋敷が、見えない手に押し潰されるようにべしゃりと潰れていく。
「歩さん!」
 多恵はとっさに少年を抱きしめた。
 爆発音が響いた。
 最新式の瓦斯オーヴンを導入していた台所から火の手があがる。調理の火が引火し、瓦斯が爆発したのだ。
 ガラスや瓦礫が横殴りの雨粒のように吹っ飛んでくる。
 多恵は歩を抱きしめたまま、ふたたび池の水に飛び込んだ。
 頭から水にもぐっても、まるで無数のこぶしに殴りつけられたような衝撃が多恵を襲った。
 息が続かなくなって、水面に顔を出す。
 吸い込んだ空気はひどく焦げ臭く、そして熱かった。
「多恵様っ!」
 そして多恵は見た。
 重厚な二階建て書院造りの母屋は、完全に倒壊していた。二階の屋根は一階よりも低くなり、ところどころから黒煙があがっていた。母屋と渡り廊下で結ばれた離れ、レンガ造りの美しい洋館は、まるでナイフを入れた西洋菓子のように半分が潰れ、残った半分は巨大な煙突と化して炎を噴き上げていた。
 そうだ。わずか数分前まで、桜子と竜一郎はあの窓辺にいた。走れば三十秒もかからないほどの距離しか離れていない場所で、そこで多恵の様子を指さして笑っていたのに。
 なのに、彼らふたりがいた場所は、今はもうもうと砂塵を巻き上げる瓦礫の山だ。あの壮麗な邸宅こそが、はかないまぼろしであったとでもいうかのように。
 ――なにが、起きたの。
 これは、なんなの。
 いったいなにがこの世界に起きたの!?
「た、多恵様! あれ……!」
 歩が指をさした。
 崩れた壁の下から、白い小さなものがのぞいている。
 それは、人間の手だった。
「まさか……っ!?」
 ふらふらとおぼつかない足取りで、多恵は岸に這い上がった。
 瓦礫を踏み、白い手に近づく。何度も転びかけ、多恵の手足も傷だらけになった。
 ゴブラン織りの壁材は、桜子の部屋のものに間違いなかった。
 そしてその下から手首の先だけ見えている手。白くほっそりとして、労働とはまったく無縁だった美しい手。血と黒煙に汚れていても、丸く整えられ、きれいに磨かれた爪が鈍く光を放っている。
 だがその手は冷たく、微動だにせず、すでに命のないことが誰の目にもあきらかだった。
「桜子様……」
 多恵は茫然とつぶやいた。
「桜子様、桜子様っ!」
 細い手首を両手でつかみ、無理やり引きずり出そうとする。
 だがその手は、多恵の手の中でぐにゃりとおかしな角度に折れ曲がった。
 ――違う。違う。こんなの、本当のことじゃない。
 多恵の心に、声にならない自分の絶叫がまるで破鐘
(われがね)を叩くように響き渡る。
 こんなの、嘘。たった一瞬でお屋敷がなくなるなんて。みんな、みんないなくなるなんて。こんなの、絶対に違う!
「桜子様あっ!!」
「だめです、多恵様! もう、ここはだめです、離れてっ!」
 背後から歩がしがみついた。
「いやよ! だってここに、桜子様が――桜子様が!」
「このままじゃ、多恵様まで死んでしまいます! 逃げてください、多恵様!」
 歩が渾身の力で多恵を引っ張る。
「死んじゃだめだ、多恵様! あなたまで死んでしまったら、絶対にだめなんだ!」
 ふたたび爆発が起きた。
 瓦礫やガラスの破片、そして火のついた破片が火山弾のように吹っ飛んでくる。
「きゃああっ!」
 多恵と歩の身体も、木の葉みたいに吹っ飛ばされた。
「うああああッ!!」
 歩が絶叫した。
 背中に火がついている。爆発の炎が直撃したのだ。薄いキャラコの生地が燃え上がり、歩の皮膚に溶けて貼りつく。
「あっ、熱いっ! 熱い、助けてーっ!!」
「歩さん!」
 火につつまれ、けもののように転げ回る少年を、多恵は腕を掴んで池へ引きずった。
 水を汲んでかけるのでは間に合わない。そのまま池の中へ突き落とす。
「歩さん! 歩さん、しっかりして!」
 自分も池に飛び込み、歩を抱き起こす。
 背中に回して支えた手に、べろりと灼け崩れた皮膚が触れ、はがれた。
「い……痛い……っ。痛い、多恵様……っ」
 歩が苦しげにうめいた。
 ――良かった。生きている!
 そう。生きている。
 でも、このままでは死んでしまう。歩さんも、私も。
 あそこで、あの瓦礫の下で燃えていくみんなと同じように、私たちも死んでしまう。このままでは……!
「逃げなくちゃ」
 多恵は小さく、つぶやいた。
 そう。逃げなくては。
 死んでは、だめ。
 歩が必死に訴えた、その言葉。現実離れして、奇妙に歪んでしまったような精神の中で、それだけが真実だった。
 どこでもいい。ここにいてはいけない。
 逃げなくては。
「立って、歩さん。歩ける?」
「た、多恵様……っ」
 歩の背中は無惨に焼けただれ、溶けた生地が貼りついて、人の肌とは思えない。
 それでも歩は懸命に足を踏ん張り、立ち上がった。
「だ、大丈夫です。ぼく……走れます!」
「ええ。……がんばって。きっとすぐに、助けが来るわ」
 いったい誰が、どこから助けに来てくれるというのか。それでも、そう信じるしかなかった。
 歩の手をしっかりと握る。
 その手は熱く、ふるえている。命の鼓動がある。
 ――そうよ。私達は生きている。まだ命があるなら、生きなくてはならない。
 生きて――生きのびなくては!
 まだ余震にふるえる大地を、多恵は走りだした。
 それから先のことを、多恵はあまりよく覚えていない。
 ただ、必死で走った。
 歩の手を引き、時に歩に導かれて、炎の中を走り続けた。
 そこはもう、東京ではなかった。
 この世の地獄だった。
 空は澱んだような赤黒い色に染まり、黄色い砂塵で視界はほとんど効かない。
 あちこちから人の声がする。だがそれは明確な言葉ではなく、まるで無数の獣の咆吼のようだった。
 繰り返し襲ってくる余震。そのたびに、街が人々の頭上に崩れ落ちてくる。
 新しい時代の象徴だった浅草凌雲閣、通称十二階は八階から上が無惨に折れて崩落し、神田ニコライ堂は高塔が墜落した。上野松坂屋も日本橋丸善も三越も、あとかたもなく燃え落ちた。
 鉄橋は川に落ち、線路がまるで飴細工のように曲がった。逓信省も農商務省も灰燼に帰した。
 地震直後に発生した火災は、火元およそ百ヶ所。おりからの強い南風にあおられて、炎はまたたく間に燃え広がり、午後七時には神田、深川、浅草北部などの下町が炎に呑み込まれた。やがて風向きが南から西北に変わると、今度は日本橋、京橋、芝なども火の海となった。
 どっちへ逃げても、炎の壁。空からは火の粉が豪雨のように降ってくる。それらの炎が今度は家財道具を満載した大八車などに引火し、さらに人々の行く手を阻み、被害を拡大させる。川には、水を求めて飛び込んだ人々の溺死体が無数に浮かんだ。
 燃え上がる火災から逃げまどう人々は、少しでも火の手から離れようと、広い空き地へ逃げ込んだ。各地の公園や駅前、皇居前広場にも大勢の人々が避難してきた。
 なかでも、本所区の陸軍被服廠跡地には、六万平方メートルの空き地に四万を超える人々が集まった。
 が、そこに四方から火の手が迫った。
 燃え盛る炎は上昇気流を巻き起こし、被服廠跡地の上空でひとつの巨大な渦となってまるで竜巻のように天へ噴き上がった。
 火災旋風の発生である。
 これにより、跡地にいた四万の人々は一瞬にして炎に包まれた。焼死者約三万八千。死体はみな男女の区別さえつかないほど黒焦げになり、この炎の龍から生きて逃れた人は、わずか二千あまりという惨劇となった。
 その後もマグニチュード5を超える余震がたびたび襲ってきた。
 行政府の機能は完全に停止し、流言飛語が飛び交い、無辜の人々が虐殺された。
 文明開化の波に洗われ、モダンな新世紀都市に生まれ変わろうとしていた東京に、天の鉄槌がくだされた。まるで人間の思い上がりによって神の裁きを受けたバベルの塔のように、わずか五十年あまりで築かれた西洋文明都市は、黒煙と炎の中に無惨に消えていった。
「痛い……っ! 痛いよ、多恵様……っ」
 歩ががくりと膝を折り、地べたにくずおれた。
「立って、歩さん! 座ってはだめよ、さあ、歩いて!」
 多恵は、激痛にうずくまる歩の腕を強引にひっぱった。歩の身体を壊れたおもちゃのように引きずり、無理やり動かす。
 そのすぐ横を、がらがらと落雷のような音をたてて荷馬車が走り抜けていった。あと一瞬、立ち上がるのが遅かったら、あの車輪に轢かれていたはずだ。
「止まっていたら、焼け死ぬか、馬車や車にひき殺されるかのどちらかだわ。歩くしかないのよ」
 あてもなく動き続ける人波に押され、どこへ向かっているかもわからずに歩く。
 そうやって、いったいどれくらいふたりで歩き続けていただろう。空は黒煙に覆われて暗く、時間の感覚も失せてしまっていた。何日も、いや何ヶ月もずっと、灼熱地獄の中を彷徨っていたような気がする。
「痛い……。背中が、痛い……っ」
 うわごとのように歩が泣きじゃくる。火傷の痛みと高熱で、意識が混濁しているのかもしれない。背中の火傷は手当てもできないまま、じゅくじゅくと赤黒い血膿を噴いていた。
「いいです。……もういいよ、多恵様。ぼくを置いていってください……!」
 瓦礫の上に座り込んで、歩が力なくつぶやいた。
「多恵様ひとりなら、きっと逃げられる。ぼくは、足手まといだから……っ」
「だめよ! そんなの、絶対にだめ!」
 多恵も泣き叫んでいた。
「あなたが言ったのよ! 私に、死んではだめだって! あなたが言ったんじゃない!」
 うずくまるふたりを、避難する人々が突き飛ばし、その手や爪先をふみにじっていく。誰もみな、そこに人間がいることにすら気がつかない。
 多恵は歩の腕を自分の肩に回させ、少年の身体を支えて立ち上がった。
 歩の体重が多恵の肩にのしかかる。子どもとは言え、けして軽くはない。
 懸命に足を踏みしめ、多恵は歩き出した。
「死なせない。絶対に、あなたを死なせないわ、歩さん」
「……多恵様」
 汚れた単衣の衿に、熱いものを感じた。それは歩の涙だった。
 もう、自分たちがどこを歩いているのかもわからない。目が痛い。開けていられない。息をするたびに、喉も胸も内側から焼けただれていくようだ。
 熱い。苦しい。頭が、いや、全身がなにかに殴られ続けているみたいに痛い。水が欲しい。頭に浮かぶのは、もうそれだけだ。
 背中に負った歩の呼吸が、どんどん忙しなく弱くなっていく。
 このままでは、命が危ない。
「助けて、誰か……っ。どこかにお医者様は――せめて、水を……!」
 多恵が懸命に伸ばした手は、しかし惨く振り払われた。
「うるせえっ! こっちだって死にそうなんだ、他人にかまってられるかッ!」
 誰もかれも煤と埃にまみれ、顔の見分けもつかないほど真っ黒に汚れている。怪我の血は黒くかたまり、その下からさらに鮮血がにじみ出る。もはや人間とは呼べない姿だ。ただ、救いを求める目だけが、縋れるなにかを探して懸命に虚空を見つめている。
 その混乱の中、多恵はあまりに無力だった。
 このままでは歩が死んでしまう。
 死んではだめと言い合って、そしてあなたを死なせないと、約束したのに。このまま、歩になにもしてやれないなんて。
「だめだっ! だめだ、こっちへ来るな! 隅田川の向こうは、もう火の海だ!!」
「橋を渡るな! 崩れるぞ!」
「どこへ行けばいいの、どっちに逃げればいいのよぉっ!」
「広いところへ逃げるんだ! 火の届かねえ、上野か、芝の公園に――!」
「上野公園……」
 ちらっと耳に届いた単語を、多恵はなかば茫然と繰り返した。
 上野。そうだ、上野駅からは、北へ延びる東北本線が始まる。関東平野をつらぬき、山脈を越えて、陸奥の地へつながる鉄の道が。
 鉄道の先には――。
 初めて、一条の光が見えた。
「歩さん。そうよ。どこへ逃げればいいか、わかったわ」
 歩を支えていた右手をはなし、多恵は自分の懐をそっと抑えた。
 そこには、たしかに小さく堅いものの感触がある。
 片手で懐をさぐり、やがて取り出した、小さな指輪。
 久川男爵家の、紅玉の指輪。
 歩の体を背負ったまま、多恵は口を使ってどうにか指輪を右中指に嵌めた。
 ――良かった。寸法はちょうどいいわ。
 皮肉ね。生まれて初めてつけたこの指輪が、あつらえたようにぴったりだなんて。
 それから、慌ただしくまわりを確認する。
 探さなくてはならないのは、歩を乗せて運べる荷馬車か大八車。そしてそれを操り、ともに北へ逃げてくれる人間だ。
 この指輪を見ても、よこしまな心を起こさない者でなくてはならない。できれば家族連れがいい。守るべき家族がいる者は、安全な避難場所と報酬を約束してもらえれば、そのために実直に頑張るはずだ。
「その馬車――その荷馬車、停まりなさい!」
 多恵は、御者台の男に見えるよう、高く右手を突き出した。
 突然飛び出してきた娘に、中年の男は目を剥いて怒鳴った。懸命に手綱をあやつり、驚いて暴れ出しそうになる馬をどうにか落ち着かせる。
「あぶねえだろう! 馬鹿野郎!」
「危険な真似をしたのは、悪かったわ。謝ります。でも、おまえに頼みがあるのよ」
 妙に偉そうな口調の娘に、男はいぶかしげな顔をした。荷台に乗っていた若い女房に老母、そして三人の幼い子どもたちも、身を乗り出して馬車の前に立ちはだかる娘を見る。
 多恵はもう一度、男とその家族によく見えるよう、指輪をした手を高くかざした。
「わたくしは久川男爵令嬢、桜子です!」
 その名を叫ぶのに、もはや多恵はためらわなかった。
 こうするしか、ない。
 生きて那原にたどり着くには。
 私は――いいえ、わたくしは、久川桜子。久川男爵令嬢!
「わたくしを、那原にある久川男爵の領地まで連れていきなさい!!」





 そうして多恵――いや、桜子が那原の祖母のもとへ辿り着いたのは、九月九日。震災から一週間以上が経っていた。
 桜子と高畑歩を荷馬車に乗せてくれた農夫は、那原の手前の城下町、羽村崎までふたりを運んでくれた。
 上野から旧奥羽街道を北へ向かい、県境をふたつほど越えると、震災の被害もそれほどひどくはなく、鉄道も通信網も機能を残していた。帝都からの情報が途絶し、不安そうな人々の視線を浴びながら、桜子は駅近くの特定郵便局から那原の久川別邸へ電報を打つことができた。
 電報を受け取った久川別邸の慈乃は、急ぎ使用人を羽村崎へ向かわせ、震災からたったひとり逃げ延びてきた孫娘を屋敷へ迎え入れた。
 それから、半年。
 帝都はすでに復興を始め、避難民が暮らすバラック街がそのシンボルとなっていた。大火災の教訓から、作り直される東京は当初の都市計画より道幅が広げられることになり、八階からぽっきりと折れた浅草十二階は爆破解体されたという。
 東京は今頃、どうなっているだろう。気がかりでないわけではないけれど。
「少し横になったほうがいいわ。無理をすると、夜になってまた熱が出てよ」
 桜子は歩の背に手を添えて、そっと布団に横たわらせた。
 重度の火傷を負った歩は、那原で療養していてもなかなか回復しなかった。微熱が続き、ときおりひどく咳き込むこともある。診察した久川別邸の嘱託医は、もともと気管支が弱かったところにこの火傷で、心身共に疲れはててしまったのだと言っていた。
 以来、歩は使用人長屋の一室で寝たり起きたりの療養生活を続けていた。
「心配なさらないでください、お嬢様」
「いいから。お眠りなさい」
 少年の胸元に布団をかけてやる。
 あの日、多恵が初めて桜子の名を騙った震災の日から、歩は多恵の名前を口にしなくなった。
 「桜子様」とも言わない。呼びかける時はただ「お嬢様」とだけ、言っていた。
 聡明な少年は、桜子の騙りをけして責めようとはしない。そうしなければ自分たちは助からなかったのだと、わかっているのだ。
 けれど彼自身は嘘をつきとおすこともできず、ぎりぎりの選択が「お嬢様」という呼称なのだろう。その言葉は、少なくとも彼にとっては嘘ではないのだ。
 枕に頭を載せると、やがて歩はうとうとし始めた。





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