FAKE −9−
「まあ……。見事なステンドグラスねえ、アールヌーヴォーの百合がとても美しいわ」
「ええ。アメリカのティファニー社製と聞いています。この乳白色のガラスが、祖父のお気に入りでしたの」
 屋敷の装飾やその来歴を質問しても、桜子の受け答えは完璧だった。
「こちらの茶器も、舶来のお品かしら?」
「いいえ、これはノリタケ製です。古いものではありませんけれど、祖母の好みですわ」
 ちょっとやそっとでは、桜子の失敗を拝むことはできそうにない。
 花筏の柄を描いた優美な京友禅の振り袖に金襴の帯を胸高に結んだ桜子は、はなやかに美しく、同性から見てもため息が出そうだ。
 長い髪は島田などの日本髪ではなく、女学生らしい庇髪にして金茶色のリボンをひとつだけ飾っているのが、逆に若々しい愛らしさを演出している。若萌葱の帯揚げに帯締め、そしてその左手には、久川家の紅玉の指輪が燦然ときらめいていた。
「こうして皆様でお話していても話題はつきませんけれど、ねえ、どうでしょう、このあたりで少し音楽でも楽しみませんこと?」
 ふと会話がとぎれた機を捉え、永井少将夫人が切り出した。夫は日露戦争で軍功をあげた人物だが、三人の結婚適齢期の娘をかかえ、やや焦り気味だとのうわさがあった。
「たしかこちらのお屋敷には、ピアノがございましたわね。よろしければうちの珠子が、皆様に演奏をお聴かせいたしますわ」
 そこまで言われては、いいえ結構ですとは言いにくい。
 一同は桜子に先導されて、ピアノの置かれた音楽室へ移動することになった。
 桜子も一行の最後に、慈乃の車椅子を押しながら音楽室に入った。
 永井家のご令嬢の演奏はまあそこそこ、素人にしてはお上手ですねという程度だったが、来客たちは口々に褒めそやした。
「すばらしい演奏でしたわ」
「私も、聞き惚れてしまいました」
 それから順番に、ピアノ演奏だのイタリア歌曲の斉唱だの、令嬢たちが自慢の音楽を披露することになった。
 桜子は招待した側、接待する側として、目立たないよう人々の後ろに控え、慈乃とともに令嬢達の音楽に惜しみなく拍手を送っていたのだが、
「そうそう、今度は桜子様のピアノも聴かせていただきたいわ」
 いきなり、永井夫人が振り返った。
「えっ――。わ、わたくしは……」
「まあ、ご謙遜なさらないで。おうわさはうかがっていましてよ。桜子様のピアノは、本職の演奏家もかなわないくらいだとか」
「それはぜひ拝聴したいものですね」
「曲は、桜子さんの一番お得意なものを」
 ほかの客たちも永井夫人に同調し、一斉に桜子に注目した。
 慈乃もおだやかに微笑んで、桜子の返事を待っている。
「みなさんも期待してらっしゃるのですもの、これ以上のご遠慮は、かえって野暮というものですわ」
「で、でも……」
 桜子は懸命に焦りを隠しながら、立ち上がった。
 ピアノなど弾けるはずがない。英会話や歴史の知識なら、隠れて勉強することでなんとかなる。けれど楽器の演奏や絵画など芸術的な素養は、付け焼き刃ではどうにもならない。毎日の練習が必要なのだ。
 東京の久川本邸で本物の桜子が家庭教師についてピアノ演奏を学んでいる時、多恵は音楽室のかたすみにひかえ、その投げやりな演奏をずっと聴かされていた。が、自分でピアノにさわったことなど一度もなかった。
 それに慈乃ならば、桜子の演奏も聴いたことがあるはずだ。そんな人の耳をごまかすことなど、絶対に無理だ。
 ――どうしよう。なんと言って切り抜ければいいのかしら……!
 でくの坊のように突っ立ったままでは、みなに疑われてしまう。ふるえる足で、桜子はピアノへ近づいた。
 さきほどの演奏が終わった時のまま、ふたが開いたままのスタンウェイ社製アプライトピアノ。その鍵盤に、おそるおそる指を伸ばす。
 だが、それ以上のことはなにもできない。
 凍り付いたようにピアノのそばに立ちつくすだけの桜子に、来客たちはいぶかしそうな表情を見せた。いったいどうしたのだろうと、ささやき交わす声も聞こえる。
 ――どうしよう……!
 その時、
「無理をすることはない、桜子さん」
 不意に、優しい声が聞こえた。
 気がつくといつの間にか、直之がすぐそばに立っていた。
 高い背を少しかがめるようにして桜子の表情をのぞき込み、優しくほほえむ。
「きみはまだ、ピアノにまつわるあの哀しい話を、みなさんにしていなかったんだね?」
「え……? あ、あの――」
 直之がいきなり何を言い出したのか、見当もつかない。来客達があっけにとられて直之を見ているのと同じように、桜子も困惑しながら彼を見上げているしかなかった。
「きみが話したくないのも、良くわかる。かわりにぼくから、みなさんに説明しよう」
 直之は来客たちのほうへ振り返った。
「みなさん。桜子嬢があの恐ろしい震災で、ご家族を亡くされたことはご存じでしょう。実はあの日、最初に東京が揺れたまさにその時、桜子嬢は久川本邸の音楽室でピアノを弾いていらしたのですよ」
 まあ……と、かすれた驚きの声があちこちから聞こえた。
「久川本邸の音楽室は、防音を考慮した頑強な石造りでした。そのため、最初の揺れに持ちこたえることができた。音楽室にいた桜子嬢は無事だったのです。ですが、屋敷のほかの部分、木造の母屋にいらしたご家族は、建物の崩壊に巻き込まれて……!」
 直之の悲痛な口調に、夫人たちは息をのみ、手にしたハンケチで口元を覆った。
 それと同時に直之は、ちらっちらっと目線で桜子に合図を送った。早く話を合わせろと言っているのだ。
「え、ええ……。そのとおりです」
 かすれる声で桜子は言った。
 突然のことに動転して青ざめた表情を伏せ、まだ落ち着かない目元を手で隠す。そうすれば傍目には、桜子が涙をこらえているように見えるだろう。
「なぜわたくしはあの時、ピアノなど弾いていたのかしら、お母様たちと一緒にいれば、ひとりで生き残ることもなかったのに――そう思うと、お父様やお母様、亡くなられた方々にとても申し訳なくて……!」
 すすり泣く令嬢に、来客達の中にも思わずもらい泣きする者が出た。
「いいえ、いいえ、それは違いますよ、桜子さん!」
 大沼夫人が駆け寄り、桜子の肩を抱きかかえる。
「生き残った自分を責めてはいけません。亡くなられたご家族の分まであなたがしっかり生きて、幸せになるようにと、神様があなたの命を救ってくださったのだから。あなたはなんにも悪くないのよ」
「孝子さま……」
 大沼夫人は桜子を支えながら、ほかの客たちに向かって手を広げ、席を立つようにうながした。
「ねえみなさま、今日はこんなに良いお天気なんですもの。お部屋の中に閉じこもっているより、久川様のご自慢の庭を見せていただきませんこと?」
「ええ、それがよろしゅうございますわね」
 数人の夫人たちが大沼夫人に同調し、立ち上がった。
「わたくし達は先にお庭へ出ていますからね。お化粧をなおしてらっしゃいな」
 大沼夫人は力づけるように桜子の背を軽く叩くと、ほかの客たちを先導して音楽室を出ていった。
「ではわたくしも庭へ参りましょう。車椅子は女中に押してもらうから、平気よ」
「まあ、お祖母様」
 桜子は祖母の車椅子に駆け寄った。身をかがめ、祖母の顔を覗き込む。
「あまり顔色が良くないわ。お疲れになったのではありません?」
「いいえ、そんなことはありませんよ」
「ご無理はなさらないで」
 桜子は少し強い口調で、慈乃の言葉をさえぎった。
「お客様のおもてなしは、わたくしだけでも充分です。お祖母様はもう、お部屋でおやすみになって」
「でも……」
「でも、はなしですわ」
 きっぱりと言い切るその口調は、慈乃そっくりだ。
「お祖母様がこのあと体調をくずしたりなさったら、お客様がただって、余計な気遣いをなさいます。それでは、なんのためのお茶会だかわからなくなってしまうわ。わたくしだって、お祖母様といっしょにしてみたいことが、まだまだたくさんありますのに!」
 その言葉に慈乃はしばらく口をつぐみ、そして楽しそうに笑い出した。
「ええ、そうね。では、桜子さんの忠告に従うことにしましょう」
「お祖母様!」
「お客様がたには、よくお詫びをしてちょうだいね」
「はい、心配なさらないで!」
 慈乃はおだやかな表情でうなずいた。
「今度は、この屋敷で夜会を開きたいわね。それとも桜の時期に園遊会がよろしいかしら」
「すてき。とても楽しみね。でも、あんまりご無理なさらないで、お祖母様」
「少しも無理じゃありませんよ。楽しいことがなかったら、生きていく張り合いがないわ。その時はわたくしもあなたも、うんとおしゃれをしなくてはね」
 明るい笑顔は、才色兼備の男爵夫人として東京の社交界を席巻した時のままだ。
「ひとりきりでは、何をやってもたいしておもしろくもないけれど、今はふたりなんですもの。あなたと一緒なら、どんなことでも楽しいわ」
「わたくしもです、お祖母様」
 うなずいた気持ちに、けして嘘はなかった。桜子もまた、心からそう思っていた。
「それじゃお客様によろしくね、桜子さん」
「はい。ゆっくりお休みになってね」
 呼び鈴を鳴らして女中を呼ぶ。すぐに来たとよに車椅子を押させて、慈乃も音楽室を立ち去った。
 ピアノの前には、桜子と直之のふたりきりになった。
「なんとか、ごまかせたな」
 ふうっと大きく息を吐き出して、直之が言った。行儀悪くネクタイをゆるめ、肩の凝りをほぐすために首を回す。
 桜子も、緊張が解けた反動で、立ちくらみを起こしそうだった。
「だから言っただろう。いいわけを頭の中に用意しておけと」
「ごめんなさい、私……」
「特に、慈乃様の前では気をつけろ。うかつなことは言うなよ。このぺてんがばれた時、一番傷つくのは彼女なんだ」
「ええ。わかっています」
 桜子はきゅっと唇を噛んだ。
 本当に危なかった。直之が機転を効かせてくれなければ、いったいどうなっていただろう。
 これから周囲の人々との交流が増えるにつれ、こういったこともどんどん多くなるだろう。そのたびに直之に助けてもらうわけにはいかない。自分で乗り切れるだけの智恵と勇気を身に着けなければ。
「ごめんなさい。今度からもっと気をつけるわ。――いつもいつも、あなたに助けてもらうわけにはいかないものね」
 目を伏せたままつぶやく桜子に、直之は一瞬、戸惑うような表情を見せた。が、それもすぐに消え、いつものような余裕綽々の笑みになる。
「まあ、頭の回転は悪くない。とっさに俺の芝居に合わせられたしな。慣れてくれば、どんな時でも機転が利くようになるさ」
 直之はにやっと笑い、洒落た仕草で片目をつぶって見せた。
「やはりきみは並みの女とは違う。肝が据わっているよ。俺の目に狂いはなかった」
 つられて、桜子もようやく笑みを浮かべる。
 体の芯に残っていた冷たい恐怖のかけらが、あとかたもなく消えていくのを感じる。
 ……これが、誰かに守られるということ。
 直之がそばにいてくれると気づいた時、胸の中いっぱいに広がったあのあたたかな気持ち。嬉しくて、安らいで、なぜか少し泣きたくて。
 そして今、できることなら直之に触れてもらいたいと思う。初めて出逢った時のように肩を借りて、自分のすべてをその強い腕に預けてみたいと。
 こんなことを思ったのは初めてだった。自分のすべてを誰かに丸ごと預けてしまいたいなんて。
 すぐそばに、頼れる人がいる。私を支えて、守ってくれる人がいる。そんなことは、生まれて初めてだった。
 ……どうしたのかしら、私。
 こんな感じは、初めて。なにかが胸の中でさわいでいる。
 私の中のなにかが、彼に向かって流れ出していくみたい――。
「今度からピアノを弾けと言われたら、いつでも同じ話で言い逃れができる。――毎度毎度同じ作り話をするのが面倒なら、こんなもん、どっかへやっちまえ」
「どっかへって……」
 あまりにもぞんざいな言い方に、桜子はぽかんとして直之を見つめるしかなかった。
 同じ頃、庭に出た来客たちは、久川家の令嬢に訪れたロマンスについて、うわさ話の花を咲かせていた。
 誰も知らなかった哀しい秘密を、桜子嬢は直之氏にだけ打ち明けていたのだ。その想いがどれほど深いものか、おのずと判るというものだ。
 入り婿の候補の筆頭に阿久津伯爵の甥をあげていた令嬢やその母親は嫉妬と悔しさに表情を歪め、久川桜子嬢を狙っていた若者たちは期待が外れてがっくりと肩を落とした。
 そして人の好い大沼子爵夫人たちは、薄幸の令嬢に救いの騎士が現れたことを、まるで我が事のように喜んでいた。
「ええ、ええ、これで桜子さんもやっとしあわせになれますよ。慈乃様もご安心でしょう。あとは、可愛いひ孫の顔を見せていただくだけね!」
 そして数日後、おんぼろのオルガンしかなかった那原地区の小さな尋常小学校に、とても立派なピアノが寄贈された。
 スタンウェイ社製のアプライトピアノには、美しい筆跡の手紙が添えられていた。
『わたくしは哀しい思い出がつきまとい、どうしてもピアノを弾く気持ちにはなれませぬ。けれども、元気なお友達がこのピアノといっしょに楽しくお歌を歌ってくださったら、ピアノもわたくしもどれほど嬉しいことでせう。どうぞ皆様、このピアノと仲良くしてくださいませ』
「ずいぶん思いきったことをしたな。小学校に無償で寄贈とは。あれは、舶来ものだったんだろう?」
「だって……」
 あきれたように言う直之に、桜子は小さくくすっと笑った。
「売ってしまっても良かったのだけど、考えてみればあのピアノだって、私の嘘の犠牲者だわ」
 私の――私たちの。その言葉を、桜子はそっと胸の中でつぶやいてみる。
 そう言うことを、直之は認めてくれるだろうか。単なる助言者ではなく、自分は桜子の協力者、同じ罪を犯す者だと言ってくれるだろうか。
 それを直之に問うてみたいと思い、また、答を絶対に聞きたくないような気もした。
「だからせめて、あのピアノを心から喜んで弾いてくれる人のもとへ、送ってやりたかったの。それがピアノにとって一番幸せなんじゃないかと思って。お祖母様も、私の望むとおりにしてかまわないって、おっしゃってくださったし」
 直之は軽く肩をすくめ、笑った。
「まったく、センチメンタルな女学生趣味だな。まるで世間知らずのお嬢様だ」
「ええ、そうよ。わたくしは深窓の令嬢、世間知らずのお嬢様だもの」
 空っぽになった音楽室に、ふたりの笑い声が響いた。
 尋常小学校の女性教師は、この突然の贈り物に腰をぬかさんばかりに驚いた。ようやく我に返ると、今度はピアノに群がる小学生達に向かって声を張り上げる。
「あっ、これ、そんな汚い手でピアノに触ってはいけません! 手を洗ってらっしゃい!ピアノを弾いてみたい方は、一列です、一列に並んで! 順番ですよ!」





 それから数日、霧のように細かいこぬか雨が続いた。気温もあまりあがらず、吐く息は白く凍りついた。
 その雨にうたれて、今がさかりの白木蓮も、いつもの年より少し早く散ってしまいそうだった。
 ――ほんとうに、このままで良いのかしら。
 窓辺にもたれて、降る雨を眺めながら、桜子はぼんやりと物思いにふけっていた。
 音楽室で直之に助けられた時の、あの嬉しさ。胸をいっぱいに満たした、あたたかさ。
 あの気持ちは、いったいなんだろう。今、思い出しても、胸の中にさざ波が生まれる。指の先までじん、と熱いものが走り、心臓が落ち着かなくなる。
 このままでは、彼に頼りきりになってしまいそうな気がする。
 何かあればすぐに、自分の後ろに直之の姿を探してしまう。彼が助けてくれるのではないかと、期待してしまう。
 そんなことばかり繰り返して、いつの間にか自分では何にも判断できず、何もできない女になってしまったら。それが一番怖い。
 いつだって自分はひとりで歩いてきた。転んで泥まみれになって、這いずるようなみっともなさだったけれど、自分だけの力でここまで進んできた。自分で選んだその生き方を、今さら捨てることなどできない。
 ――そうよ。あの人は信頼して良い人間じゃないわ。





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