「あっ、来やがった!」
 ボールがぽーんと大きく蹴られる。
 それを追って、ひかるは走った。
 そして、叫ぶ。パスを受けようとした木島に向かって。
「おら、どけよ! オレにさわられたら、井上菌に感染しちまうんだろ!?」
「えっ!?」
 木島はびくっとふるえた。
「おら、どけどけどけっ! てめえら、オレにさわったら、汚染されるぞ! 汚染されたら、今度はてめえらがバイキンだぞーっ!!」
 ひかるの前にいた男子たちが、反射的に、ぱっとよけた。
 それは、光自身、何度も体験してきたことだった。
 井上光にさわるな。あいつはバイキンだ。みんながそう言い合い、光の前からわざと、ぱっと飛びのく。万が一光にさわってしまったら、さわったやつまで、バイキンだバイキンだとはやしたてられ、みんなからさけられてしまう。
 木島もよけた。
 ボールは、誰もいなくなったスペースを、てんてんと転がっていく。
 ひかるはそこへ走り込んだ。Jリーガーみたいにかっこいいポーズをキメて、ボールを足で押さえる。
 そしてゆうゆうと、クラス全員を見回した。
 でも、誰もボールをとりにいけない。だって、井上光にさわってはいけない。それが、六年B組のルールだから。
 軽々とドリブルしながら、ひかるは走りだした。まるで、たったひとりでボールを蹴って遊んでいるみたいだ。
 ほかの生徒は、グラウンドに突っ立ったまま、それをだまって見ているしかなかった。
「……な、なにしてるの、みんな?」
 相沢先生が、おろおろと声をかける。
 誰にもとめられることなく、ひかるは一気にゴール前まで走った。
 シュートするために、足を大きくふりあげる。
 ゴールキーパーが身構えた。――キーパーは、金子だ。
 その時、ひかるはまた叫んだ。
「オレがさわったボールだぞ! おまえ、さわってもいいのかよ!?」
「――えっ!?」
 金子は一瞬、どうしていいかわからない、という顔をした。助けを求めるように、森本や水沢を見る。
 けれど彼らにも、どうしていいかわからなかったに違いない。
 ひかるは嫌味なくらいゆっくりと、ボールをゴールに蹴りこんだ。
 キーパーは一歩も動けなかった。
 ゴールに転がったボールを、ひかるは自分で拾い、また蹴り始めた。今度は反対のゴールに向かって。
 ほかの生徒は、誰も、何もしない。
 サッカーは、めちゃくちゃになった。
 ボールを蹴って走っているのは、ひかるひとりきりだ。
 ほかの生徒たちは、ただ、立っているだけだ。冷たい風の吹く校庭で、まるで小さな並木みたいに立ち尽くし、その場から一歩も動かない。
 ひかるがそばを走り抜けると、みんな、まるで見てはいけないものを見たように、あわてて目を伏せる。そしてまわりのクラスメイトたちに、ちらちらと視線を向ける。自分はどうしたらいい? とたずねるみたいに。でもそれに対する答は、どこからもないのだ。みんな、ただじっと立っているしかなかった。
「ね、ねえ、みんな、どうしちゃったのかな? どうしてサッカーしないの?」
 相沢先生はいっしょうけんめい、みんなに声をかけた。
 でも、それに対する返事もない。さすがに、「井上光がさわったボールなんか、汚くてさわれません」とは、先生には言えないのだろう。
 どうしようもなくて、相沢先生はとうとう、ひかるに頼み込んだ。
「ねえ、井上くん。ほかのみんなにも、ボールをパスしてくれないかしら? みんなにも、サッカーさせてあげてちょうだい」
 ――先生が、頼み事! 井上光に、「みんなにもサッカーをさせてあげてちょうだい」だって!? 数人の小さなグループでやった理科の実験だって、ぼくは、なにもできなかったのに!
「はい、わかりました。先生」
 ひかるは素直にうなずいた。
 そして、ぽーんと大きくボールを蹴る。
 その先には、森本がいた。
 森本はまったく動かなかった。まるで棒っきれみたいに、硬直したままだった。
 ボールは、森本の横をころころところがっていった。
 ひかるは相沢先生のほうにふりかえった。そして、「ね?」というように、軽く肩をすくめてみせる。
 先生も、もうなにも言えなかった。
 4時間めが終わるまで、ひかるはたったひとりで、楽しそうにボールを蹴り続けた。ほかの生徒たちは、ただそれを、うらめしそうにながめていることしかできなかった。
 やがてチャイムが鳴りひびく。
 六年B組にとって、おそらく今まででもっとも長くつらい四時間めが、ようやく終わった。
「すごいや、すごいや、ひかる!」
 光は思いきり声をはりあげた。どうせひかるにしか聞こえない。
「あの時の森本の顔、見た!? すっげー顔してたよ! 真っ赤になって、口とか鼻とか、ぴくぴくふるえちゃってさ!」
 のろのろと校庭から引き上げるクラスメイトたち。みんな、吹きさらしの校庭にじっと立っていたせいで、ひどく寒そうだ。鼻水をたらしているやつもいる。
「ぼくじゃあんなこと、考えつきもしなかった。今までずっと、ただ仲間はずれにされるのが、つらくて、悔しくてさ――」
「まだまだ、こんなもんじゃないからね!」
 ひかるは走りながら、小さな声で答えた。
 ふるえながら戻ってくるクラスメイトたちより先に、元気いっぱい、昇降口へ駆け込む。みんなは、ひかるを追いかける元気もないらしい。
「光。給食はどこに届くの?」
「え? でもぼく、今週は当番じゃないよ」
「いいから、案内しなさいってば」
「どうすんのさ、ひかる? ぼく、給食当番のエプロンだって持ってないのに」
 ひかるは、なにを言ったって聞いてくれなかった。
「こんにちわあ! 六年B組の給食、取りにきましたー!」
 光に案内させて、ひかるは給食室に飛び込んだ。
「あー、はいはい。そこのワゴンよ」
 給食のおばちゃんが、クラスごとに用意されたワゴンを指さした。
 ワゴンには、主菜の大きななべや、フライなどの入った副菜の平たいなべ、パンがならんだ箱などがきちんと積まれている。
「あら。きみ、当番のエプロンはどうしたの?」
「ごめんなさい、忘れてきちゃいました!」
「しょうがないわね。今度からは忘れないようにね」
 おばちゃんたちは、それ以上はなにも言わなかった。さすがに、給食室のおばちゃんたちにまでは、六年B組のいじめのことは知られていないらしい。
 給食室にはすでに、ほかのクラスの生徒たちも給食を取りにきている。かなりの混雑だ。どこのクラスから何人の当番が来ているかなんて、よくわからない。
 だから、ひかるがたったひとりでB組の給食を運び出しても、誰も気にしなかった。
 今度は光も、ひかるがなにをしようとしているのか、すぐにわかった。
「ひかる、そこの廊下、曲がって。車椅子用のエレベーターがあるんだ。ほんとは使っちゃいけないけど、でもそのエレベーターを使えば、森本たちより早く教室に戻れるよ!」
「オッケー! あんたも察しがいいじゃん、光!」
 重たいワゴンを押しながら、ひかるは全速力で走った。
 エレベーターで急いで4階まで上がり、B組の教室に飛び込む。
 光の思ったとおり、教室にはまだ誰も戻ってきていなかった。
 女子はまだ更衣室にいるのだろう。男子は、もしかしたら、昇降口かどこかに集まって、光へのしかえしを話し合っているのかもしれないが。
 ――でも、そんなのもう、怖くない!
 ひかるが、主菜のシチューをつぎわけるおたまを持って、にっこりと笑う。光もうなずいて、笑い返した。
 ひかるがプラスチックのうつわに、あったかいクリームシチューをなみなみとよそった時、教室のドアが開いた。
 まだジャージ姿の男子たちが、ぞろぞろと教室に入ってくる。
「遅いぞ、おまえら。せっかくの給食だってのに、なにやってんだよ」
 おたまをしっかり握りしめて、ひかるはなべのそばでふんぞりかえった。
「て、てめえ……っ!」
「おまえらがあんまり遅いから、オレ、待ちきれなくて、給食運んできてやったぞ。ほら」
 ひかるは、あんまり熱くない副菜のなべや、パンが並んだトレイを、ぽんぽんと軽くたたいた。
 そして、わざとらしく、
「あっ、悪りい! オレ、なべにさわっちゃったよー!!」
「い、井上、てめえ――っ!」
「ごめんなあ。もうこれで、給食も井上菌に汚染されちゃったよなあ? おまえら、どうする?」
 ――どうするも、こうするも、ない。
 井上菌に汚染されたものには、六年B組の生徒は、誰もさわってはいけないのだから。
 いや、そんなルールにだって、抜け道はある。たとえば、「井上光がさわったのは、なべとかおたまとか、食器だけだから、給食のパンやミルクなど、食べ物そのものは汚染されていない」とかなんとか、へ理屈をこねることはできるはずだ。
 だって森本たちは、光に暴力をふるう時は、汚染もへったくれも気にせずに、ばんばん光のからだにふれて、殴ったり蹴ったりしたのだから。
 けれど、誰もそんな考えは思いつかないようだった。
 思いついても、言えないのかもしれない。「そんなみじめないいわけしてまで、給食が食いたいのか。こんな汚染された給食を!」と、誰かが怒って言い出せば、今度は自分がいじめのターゲットにされてしまいかねない。
 やがて、更衣室から女子たちも戻ってくる。
 けれど彼女たちも、一歩教室に入るなり、その異様な空気に気がついた。みんなドアの近くにひとかたまりになって、自分の席にも戻れずに立ちつくす。
 その中には、高倉の姿もあった。
 おびえて落ち着かない様子の女子たちにまじって、高倉はひとり、妙にしらけたような顔をしていた。なんだか、こうなることがわかっていたような表情だ。更衣室で、今日の体育の授業がどんなことになったか聞いて、給食ももしかしたら、と、予想していたのかもしれない。
「ま、とにかくよそってあげるよ。給食を汚染しちゃったおわびにさ、今日の給食は、みんなオレがくばってあげるから」
 ほら、みんな席についたついた、と、ひかるは生徒たちに明るく声をかけた。
 そして、生徒たちが着席するより早く、ぱっぱと給食トレイを机の上にのせていく。続いてパン、牛乳と駆け足でくばり、最後にトレイを押しながら、シチューと副菜のコロッケをくばった。
 みんなはだまって、あったかくておいしそうな料理が、自分の目の前に置かれていくのを見つめているしかなかった。
 やがてひかるが給食を配り終えるころには、相沢先生も教室に入ってきた。
「みんな……、なんか、静かね」
 生徒たちは、全員がきちんと着席して、口も開かずに、ただじっと給食を見つめている。
「はい、先生」
 ひかるは先生の分の給食もきちんとそろえて、先生の机にのせた。
「あ、ありがとう、井上くん。……井上くん、今日、給食当番だった?」
 その質問に、ひかるは答えなかった。
 相沢先生はすぐに、はっとなにかに気づいたようだった。そして、ひどく困ったような顔をして、目をそらす。
 ――そうか。先生、ぼくがみんなにむりやり給食当番をやらされてると思ったんだ。教室の掃除とか、ずっとぼくひとりがやらされてるから。
 だから、相沢先生は、ひかるのことを叱れない。先生の目から見れば、今も井上光はいじめの被害者なのだ。
「じゃあ、いただきましょう」
 決まりどおり、あいさつをする。
 けれど、スプーンとフォークを手にとったのは、ひかると相沢先生だけだった。
「みんな……? どうしたの?」
 誰も、一口も食べようとしない。
 ぎゅっとからだをこわばらせて、だんだん冷めていく給食を、見つめている。みんな、泣きそうな目をして、けんめいに空腹をがまんしている。
 給食をおいしそうに食べているのは、ひかるだけだった。
 ――食べられないよな、みんな。
 食べてしまったら、そいつは裏切り者だ。井上光の同類にされてしまう。
 いいや、井上光がここまで強気で反撃に出てきたからには、その裏切り者が、今度はたったひとりのいじめのターゲットにされてしまうだろう。
 いじめでなにがおもしろいかといえば、相手が絶対に反撃してこないとわかっていることだ。どんなにそいつをいじめて、殴っても、殴り返されない。自分は全然痛くない。だから、ひとりの人間をいつまでも殴り続けていられるのだ。
 だが今、井上光は、殴り返してきた。
 たったひとりで、37人のクラスメイトを相手に、いや、学校中を相手に。
 ――怖いんだ、みんな。
 今まで自分がやってきたこと、それに対して、しかえしされることが、今、怖くて怖くてしかたがないんだ。
 教室の中をふわふわただよいながら、光は、クラスメイトひとりひとりの顔を、じっと見つめていった。
 幽霊みたいな存在になり、いじめの当事者の立場をはなれて、ようやく光は、クラスメイト全員の顔を、はっきりと見ることができた。
 それまではみんな、「いじめの集団」というのっぺらぼうのかたまりみたいに思えて、ひとりひとりの顔なんて、ほとんどわからなくなっていたのだ。
 でもこうして空中から見下ろすと、みんなひとりひとり、違った顔、違った姿をしているのがよくわかる。「いじめの集団」なんて化け物みたいなひとかたまりじゃない。みんなそれぞれ、ひとりの人間だ。
 ――みんな、怖いんだ。いじめた相手に復讐されることが、今度は自分がいじめのターゲットにされることが。怖くて怖くて、なにをどうしていいかもわからなくて。
 なんだか、とてもかわいそうだ。
 森本ですら、光はかわいそうだと思った。
 もちろん、森本たちが自分になにをしたか、忘れることはできない。ひかるが言わなくとも、きっと大人になっても、彼らのことは大きらいなままだろう。
 でも、怒りや悔しさで顔を真っ赤にした森本は、今にも泣きそうに見えた。まるで森本のほうが、誰かにひどくいじめられているみたいだ。
 森本たちは今、自分たちで決めたいじめのルールに、自分たちががんじがらめにしばられて、逃げ出せなくなっている。
 ――逃げることができないんだ。このクラスにいるかぎり、誰も、いじめから逃げられない。いじめのリーダーである森本も、相沢先生も。
 やがて、昼休み終了五分前のチャイムが鳴った。
「え? もうそんな時間なんだ」
 光は、黒板の上にかけられた時計を見た。
 幽霊になったせいだろう、光はまったくおなかが空かない。そのため、時間の感覚もなんだかあいまいになっているみたいだ。
「えっと、みんな……。給食、片づけてもいいかな? いいよね? しょうがないもの、五時間めが始まっちゃうし……」
 ぼそぼそと、いいわけみたいに相沢先生が言った。みんな、しかたなく、一口も食べていない給食を片づけ始める。
 結局、給食を食べられたのは、生徒ではひかるひとりきりだった。
 五時間め、六時間めも、B組の教室はしんと静まり返ったままだった。
 算数の授業で、相沢先生が「この問題がわかる人?」と言っても、答えて手をあげる生徒はひとりもいない。
 みんな、先生なんか見ていない。となり、ななめ、まわりのクラスメイトの様子ばかり気にしている。誰かがしゃしゃり出て、目立とうとしてないか。反対に誰かが自分のことを、ひとりだけ目立ちやがって、と、にらんでいないか。そればかりをたしかめているのだ。空気がはりつめて、なんだか、今にもなにかが爆発しそうなふんいきだ。すごく、居心地が悪い。幽霊になった光でさえ、そう感じた。
 クラスメイトたちも、教科書の上に顔を伏せて、早く終われ、早く終われ、と必死で念じているみたいだった。
 6時間めの終わりを告げるチャイムが鳴った時、生徒たちも、そして先生も、ひどく疲れ切ったように、大きくためいきをついた。
 長かった一日が、めちゃくちゃな一日が、ようやく終わる。
 掃除当番が、だまって教室の掃除を始めた。今日は、光ひとりにおしつける気はないらしい。
 ――そうだよな。そんなことしたら、ひかるにどんなしかえしされるか、わかんないし。
 当番ではない生徒たちは、あわてて教室を出ていった。まるで逃げるみたいに。
 森本たちも、いつものグループひとかたまりになって、教室を出ていこうとした。
 井上光へのしかえしは後回し、今は光のいないところへ行って、少し冷静になってゆっくり方法を話し合おう、とでも決めたのかもしれない。あるいは、井上光の顔さえ見えなければ、どんなひどいことだってできる、早くかくれて、またいじめを始めよう、と。
 けれど。
「あ、そうだ、森本ぉ!」
 ひかるがわざわざ、森本たちを呼び止めた。
「オレさあ、今日、うっかりケータイこわしちゃったんだよなあ」
「えっ!?」
 ひかるの手には、画面が割れた銀色の携帯電話が握られていた。





BACK    CONTENTS    NEXT
【 −6− 】
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送