「なんだ、そんなこと。怖くないよ。きのうのこと、あんただって全部見てたでしょ。あの連中がなにやったって――」
「そうじゃないよ!」
光は思わず、大きな声を出した。
「……わかってる。森本たちがなにやったって、ひかるはすぐにやり返せるよね。ひかるは頭がいいし、勇気もあるし――。でも、そうしたら森本たちはまた、ひかるにやり返そうとするよ。それに対して、ひかるがまたしかえししたら……、いつまでたっても、止まらないよ。おたがいにしかえしのくりかえしになっちゃう」
いじめやしかえしの連鎖が止まらなくなったら。毎日毎日、おたがいに、今日はあいつにどんないやがらせをしてやろう、あいつは自分にどんなひどいことをする気だろうと、そればかりを考えてすごすなんて。
「そんなの……やだよ」
光はぽつりとつぶやいた。
「わかってるよ」
ひかるは、短く答えた。
その目には、あの強い自信が満ちている。
「そうさせないために、あんたのコレを借りたのよ」
ひかるの手には、あのデジタルオーディオプレイヤーがあった。
そんなものがなんの役に立つの? と、光がたずねる前に、
「ほんと、不便だよね。こどもってさ。制約ばっか多くって」
ぽつっと、ひとりごとみたいにひかるは言った。
「え、どういうこと?」
制約て、いろんな決まりや、行動をしばるもののことだ。それなら、大人のほうがずっと多いのに。責任とか、やらなきゃいけないこととか。
わからない? と、ひかるは光を見上げ、小さく首をかしげてみせた。
そのしぐさが、なんだかとっても女の子っぽくて、可愛い。光はちょっとドキドキしてしまった。
――ヘ、ヘンなの。だってこれは、ぼくのからだなのに。ぼくのからだ、ぼくの顔を見て、可愛い、なんてさ。
「あたしがこのへんで死んだ日、あたし、一人で映画観に行ってたのよ」
「一人で?」
「そう。でもかんちがいしないでよ。あたしにだって、たくさん友達はいたんだから。いっしょにご飯食べたり、旅行に行ったり――。でも、映画に行く時は、たいがい一人なの。あたしの友達、みんな女の子らしく、ラブコメとかロマンチックな純愛映画が好きでさ。でもあたしは、爆発ドカドカ乱闘バキバキのアクション映画のほうが好きなのよ」
「ひ、ひかる……」
光は思わずためいきをついた。その言葉が、あんまりにもひかるらしくて。
「だからって、どっちかの好みにあわせて、片方は全然興味ない映画を観るなんて、ばかばかしいと思わない? だからあたし、映画観る時はたいてい一人なの。友達も、誰かほかの人さそって映画に行くはずよ」
「でも、それって……」
「目的に合わせて友達を都合良く使い分けてるみたいで、いや?」
「う……」
そのとおりだと、光は思った。
でもそんなことを言ったら、ひかるをけなしているみたいだ。だからだまっていたのに、そのものずばりを言い当てられてしまった。光はしかたなくうなずく。
「そうだよね。子供の社会のルールじゃ、きっとそうだと思う」
「子供の社会?」
「でもね、大人の社会じゃ、違うの。そういうのは、相手の好みや個性を尊重してるって言うのよ」
「……そ、んちょう?」
ひかるはにこっと笑った。
「そう。目的や時間に合わせて付き合う人を変えるのは、悪いことでもなんでもないの。当たり前のことなんだよ。友達だからって、いつもいつもべったりいっしょにいなきゃいけないなんてこと、ないんだ」
ゆっくりと歩きながら、ひかるは言った。すれちがう人には聞こえないよう、小さな声で。
「うまく趣味の合う人がいなかったら、べつにひとりでいたっていい。ひとりで映画観たり、お店に入ったり、旅行したり……それはちっとも、おかしなことじゃないの」
たしかにそうだ。ファミレスでもファーストフードでも、ひとりで食事している大人なんて別に珍しくない。それを、誰も不思議だなんて思わない。
でも、子供にはそれは無理だ。映画館だって、光の年令じゃあ、ひとりで入ろうとしたらきっと、まわりはおかしいと思うだろう。
「でも、こどもにはそれは許されないよね。まわりの大人はみんな言うもの、『クラス全員、仲良くしなきゃいけません』『ひとりでも多く友達を作りましょう』……そんなのむりだって、わかってるのにね」
「うん……。そうなんだ。ぼくもそれ、おかしいって思ってたんだ」
先生たちは言う。いじめをなくすには、いじめている子といじめられている子が仲良く友達になればいいんだって。
でも、そんなこと、絶対に無理だ。
光は、森本たちとなんか、絶対に仲良くなりたくなんか、ない。
森本たちと仲良くなるってことは、あいつらのいじめのグループにくわわるっていうことだ。
いじめられるつらさは、誰よりも光自身が知っている。その自分が、友達づきあいを保つためにほかの誰かをいじめなきゃいけないなら。
――友達なんか、いらないよ。
ひとりでいれば、誰もいじめずにいられるなら。
ひとりっきりでいたって、いいんだ。
たしかに、ひとりで遊んだり、本を読んだりするのは、ちょっと淋しい。でも、誰かといっしょにすごすためだけに、ほかの誰かを犠牲にするくらいなら、そんな淋しさなんて、ちっともつらくない。
そうだ。クラスの中で誰も光と口をきいてくれなくたって、もうそんなこと、なんでもない。向こうが口をきいてくれないんじゃない、話す必要がないから自分が黙っているだけだと思えばいい。ただ、理由もなく殴られたり、持ち物を壊されたり、そういう目に見える大きな被害さえなければ、一日中ひとりでいることくらい、どうということはないんだ。――あとは、光のかわりに殴られるやつが出てこなければ、それで充分だ。
でも、そんなことはどうしても言えなかった。「ぼく、友達いりません」なんて。
ひかるはその光の気持ちを、わかってくれている。
「自分で選んでひとりで行動する子は、『協調性がない』『内向的』『コミュニケーション能力に問題あり』って決めつけられちゃう。子供はね、ひとりでなにかするってこと、許されないのよ。特に学校の中じゃね」
「うん……」
たぶん、そうだろう。めだった友達がいない生徒の通信簿には、きっとそういうコメントがつけられてしまうにちがいない。
「人とコミュニケーションすることは、大事だよ。友達だって、いっぱいいればきっと楽しい。学校で言われることは、うそじゃないよ」
「でも――」
「うそじゃない。それはね、理想なの」
説明するひかるの表情は――光の顔であるのに――とても大人びて見えた。やっぱりひかるは大人なんだ。そう思う。光のわからないことを、こうして教えてくれる。
「理想は理想。やっぱり現実とは少しズレちゃってんだよね」
ちょっとため息をついて、ひかるは言った。
「世界中の人と仲良くなれたら、そりゃあ、いいよね。でもそんなこと、絶対むり。誰だって、キライなヤツや苦手なヤツはいる。でも学校ん中じゃそれは許されない。同じクラスになった以上、なにがなんでも仲良しになんなきゃいけないなんてね。大人はいつもそうやって、子供に建て前ばっかり押しつけるんだ」
「たてまえ……?」
「人間が集団になれば、キライなヤツが出てくるのは当然。それが本音。大人はちゃんと、本音に従って生きてる。キライなヤツはキライ、仲良く友達になる必要なんかないってね。でもこどもには、同じことを許さないんだよね」
つまり、光が森本たちとは友達になんかなりたくない、あいつらと仲良しごっこするために誰かをいじめるくらいなら、卒業までずっと誰とも口をきかなくてもいいと思うのも――本音なんだろうか?
大人には、そういう生き方も許されているの?
「一人でいることは、たしかに淋しいよ。不安なこともいっぱいある。たとえば病気になっても、誰も看病してくれない。どんなにつらくたって、一人で病院行って、一人で寝てなきゃいけない。おなかすいたって、誰もおかゆ作ってくれない。自分でキッチンに立って、作らなくちゃ」
「うん……」
だから、大人たちは言うのだろう。一人でいてはいけません、できるだけたくさん友達を作りなさい、と。
「それでも、一人でいたいと思うなら、一人きりでだって、かまわないんだよ」
ひかるはごくふつうの顔をして、にこっと笑った。
「誰かといっしょにいることは、とても安心だよね。困った時には助けてもらえる。そのかわり、いっしょにいる人に合わせなくちゃいけないことも、いっぱいある。お互いに我慢して、遠慮したり気ぃ使ったり……。そういううざったさを我慢して、誰かといっしょにいる安心を選ぶか。それともひとりでいる気ままさを選んで、不安を我慢するか。どっちを選ぶかは、本人の自由」
「自由――」
「そう。大人には、それがあるの。自分の生き方を自分で決める、自由」
たしかに、子供にはそれがない。自分一人で生きていくことなんかできないし、まわりの大人たちはみんな、ああしなさいこうしなさいと、命令ばかりしてくる。それに従わない子供は「悪い子」になってしまう。
大人になれば、もう誰からも命令されない。
「もちろん、選んだ生き方が一〇〇%カンペキに幸せなんてこと、ありえない。どんな道を選んだって、うまくいかないこと、不都合なこと、つらいこと哀しいこと、いっぱいある。それをみぃんな受け入れて、これが自分の選んだことなんだってちゃんと納得しなきゃいけない。誰かのせいにしちゃいけない。その覚悟が必要なんだよ、大人にはね」
大人の、覚悟。
自分のことは、自分で考えて、自分で決める。その結果は、悪いことも苦しいこともみんなふくめて、自分で受けとめる。人のせいにしない。
自分の決断、自分の力で生きられる。
そのかわり、誰も守ってくれない。
それが、大人の覚悟。
――それがあるから、ひかるはそんなふうに、笑っていられるの?
なにも怖くないよって、言えるの?
その疑問を、光が口にしようとした時。
「ほら、急ごう! このままじゃ、遅刻しちゃうぞ!」
ひかるは全速力で走りだした。
「あ、待ってよ、ひかる!」
光も、そのあとを追いかけるしかなかった。
いっしょうけんめい走ったおかげか、ひかると光は、どうにか遅刻せずに教室に入ることができた。
六年B組の教室は、気味が悪いくらい静かだった。
ひかるが入っていくと、みんな、じっとその姿を目で追いかける。けれどもう、にやにや笑ったり、ばかにしたような顔はしていない。
それどころか、みんな、ひどく気味の悪いもの、おっかないものを見てしまったような顔をしている。たとえて言うなら、車に轢かれてしまった犬や猫の死骸だ。怖いし、気持ち悪いし、けして見たいものじゃない。なのにどうしても、目がそっちへ行ってしまう。そんな感じだった。
そんな視線の中を、ひかるは少しも怖がらず、まっすぐに自分の席へ歩いていった。
――どうしてだろう。ひかるは本当に、なにも怖くないんだろうか。
ひかるのうしろをふわふわとついていきながら、光は思った。
ぼくなんて、世界中、怖いものだらけなのに。
ひかるが一度死んでしまった幽霊だから? それとも……大人だから?
大人になれば、ひかるみたいに、怖いものなんてなにもなくなるの?
でも、同じ大人でも、相沢先生はいつもびくびくおどおどしている。ほかの先生たちだって、そうだ。
いじめのリーダーである森本になにか言われるよりも、被害者の光に話しかけられるほうが、先生たちにはつらく、怖ろしいことのようだ。光がなにか言おうとすると、相沢先生はいつも真っ青になって、泣きそうな表情になる。おねがいだから、私にこんな怖いものを見せないで、とでも言いだしそうだった。
――ひかるは本当に、なんにも怖くないの? なにがあっても、平気なの?
怖くても我慢する、という方法を、ひかるは選んだから?
今、それをひかるにたずねることはできない。それが、光にはひどくもどかしかった。
やがてチャイムが鳴り、いつものように相沢先生が教室に入ってきた。
「みんな、おはよう」
相沢先生は友達みたいに生徒たちへ話しかけるけれど、けして生徒ひとりひとりと目を合わせようとしない。光はそのことに気がついた。それどころか先生は、いつも、どこか違うところばかりを見ている。
クラスメイトたちは、それに気がついていないのだろう。今までは、みんな、光をいじめることに夢中で、先生の様子なんてろくに見ていなかった。そして今は、ひかるのことが怖くて、先生なんかにかまっていられない。
そして、授業が始まった。
息がつまるような重苦しい静けさは、授業が始まっても、変わらなかった。
聞こえるのは、先生の声だけだ。みんな、おしゃべりもしない。
だからと言って、みんな、授業に集中しているわけでもない。
生徒たちは全員、ひどく上の空だった。ある者はうつむいたまま石みたいに固まって、身動きひとつしない。ある者は反対に、まわりを気にして、きょろきょろよそ見ばかりしている。
窓ぎわの席の高倉は、じっとなにかを考え込んでいるみたいだった。その表情はひどく不機嫌そうで、世界中のなにもかもに対して、腹が立ってしょうがない、という顔に見える。
森本はうしろのほうの席で、ずっとひかるの背中をにらんでいた。その顔には、反省の様子なんてちっともうかがえない。
――やっぱりそうだ。あいつ、またなにかやるつもりだ。
いざとなったら、ぼくがひかると入れかわろう。光はそう覚悟を決めた。
ひかるはぼくのために、いろんなことを考えて、やってくれた。ぼくのために、ひかるにつらい思いをさせることなんて、できない。
あのからだはもともと光のものだ、光が強くからだに戻りたいと念じれば、ひかるの意識を追い出すこともできるはずだ。ひかるだってそう言っていた。
そうして、時間だけがのろのろとすぎていった。
何回かチャイムが鳴り、気がつけば、午前中の授業は終わりになっていた。
「え? もう四時間めも終わり?」
幽霊になった光は、おなかもすかない。そのせいか、時間の流れがどうもぴんとこない。
チャイムが鳴ると同時に、森本が椅子を蹴って立ち上がった。先生がまた教室を出てもいないのに、福田や金子たちを引きつれて、教室を飛び出していく。
「なんだ、あいつら……? 給食当番でもないくせに」
ちょっと考えて、光はすぐに彼らの目的に気がついた。
森本たちは、ひかるより先に給食を持ってくるつもりなのだ。きのうみたいなことになっては、たまらないから。
光の予想どおり、森本たちは給食のワゴンをがっちり取り囲んで運んできた。教室の中へ運び入れると、まるでバリケードみたいに、その前に並んで立ちふさがった。
森本はひかるをにらみつけて、言った。
「残念だったな。てめえに食わせるメシなんか、ねえよ!」
クラス全員が、ふたたび森本の味方についていた。もともとの給食当番がパンや牛乳をくばり始める。が、ひかるの席は避けて通る。おかずをつぎわける者も同じだ。ひかるの姿など見えない、声も聞こえない、というように、無視している。
相沢先生は、まるで自分がいじめられているみたいな顔をして、声も出せずにおろおろしているだけだ。
おかずやパンがのったトレイを持って、森本がひかるの横を通り過ぎる。福田や金子も同じように、そのあとに続いた。みんな、勝ち誇った表情だ。
ひかるをのぞいて、クラスメイト全員に給食がくばられた。相沢先生の机にも、トレイがのせられる。そしていつもどおり、日直の合図で全員声をそろえて「いただきます」を言う。
「ざまあみろ。これからずっと、卒業するまでてめえは給食抜きだ」
森本がひかるをあざ笑った。
そうだそうだ、と、まわりの生徒たちもいっせいにはやしたてる。おまえになんか給食食わせてたまるか、と。
「別にかまわねえよ」
けろりとして、ひかるは言った。
「オレ、家から弁当持ってきたから」
そしてリュックの中から、お弁当を取り出す。
――すごいや、ひかる!
空中で、光は思わずバンザイしそうになった。
ひかるには、森本たちの考えなんて、とっくに全部お見通しだったのだ。
「今日のおかずはなにかなーっと。やったぁ、母さん、オレの好きなもんばっか入れてくれてる! とりのからあげに、きんぴらに……おにぎりは、めんたいこだ!」
お弁当箱のふたを開け、ひかるは明るい声ではしゃいだ。
クラス全員が声も出せずに、ひかるを見つめていた。
「どしたんだよ? おまえら、給食食べないの?」
運の悪いことに、今日の給食は、生徒たちに一番評判の悪いもやしのスープにサバの竜田揚げだった。ひかるのお弁当にくらべると、さらに魅力がなくなってしまう。みんな、ひかるがおいしそうにお弁当を食べるのを、ひどく恨めしそうに横目でながめていた。
「井上くん……。だめよ、ひとりだけお弁当持ってきたりしちゃ」
今にも泣きそうな声で、相沢先生が言った。
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