「薫平……」
 小さな子供みたいにぼろぼろ涙をこぼしながら、その涙を拭くことも忘れて、未沙は顔をあげた。
 なにもかもかすんで、ぼやけて見える世界の中で、ただ薫平の姿だけがくっきりと力強く見えた。
「薫平……。いいの?」
 ……あたしなんかといっしょで、いいの?
 なんにもできないのに。
 あたしなんて、なんの価値もないのに。存在している意味すらない。この世界にとって、あたしなんかどうでもいい存在なのに。
「行こう」
 薫平はくりかえした。
「海のほたるを見に行こう」
 未沙はうなずいた。
 ――それが。
 ただそれだけが、今、未沙の存在する意味になった。
 未沙は立ち上がった。
 よろよろしながら、それでも力の入らない脚を懸命に踏ん張って。まるで生まれたばかりの子牛かなにかみたいで、ひどく滑稽だ。
 けれど、そんなカッコ悪さになんか、かまっていられない。
 だって、薫平が待っていてくれる。
 いっしょに行こうと言ってくれている。
 それに、応えなくちゃ。
 いっしょに、行くんだ。薫平と一緒に。
 こんなちっぽけなことで必死にがんばって、足掻いて、自分のすべてを賭けるなんて、端から見ればとてもばかげている。唯那たちはきっと笑うだろう。
 それでも、いい。誰に笑われてもかまわない。
 こうして立ち上がることだけが、今の未沙にできるすべて。
 信じていたい。まだ、自分にもなにかできることがある、と。
 どんなに小さな、無意味なことでもかまわない。望みも憧れもない、空っぽだったこの胸に、今は強く思うことがある。追い求めることがある。
 なにかを求め続けられる自分でいたい。それだけの力が、心がまだここにあると、信じていたい。
 力なく、無様で格好悪い自分。そんな自分から逃げない。目を逸らさない。
 もう、じぶんをいつわらない。
 これがあたし。向野未沙。それは、誰よりもあたし自身が一番良く知っている。
 誰にもわかってもらえなくて、いい。自分自身が知っていればいい。この手に、この足に、まだなにかをやりとげる力があるということを。
 まだ消えたくない。
 誰のためでもなく、ただ、あたし自身のために。
 信じられる、あたしでいたい。
 泣いても、転んでも、どんなに無様でもいいから。
 あたしは、海のほたるを、見に行くんだ……!





 それから、未沙はただ、海に浮かぶほたるのことだけを考えようとした。
 薫平の部屋で見た、写真パネルを思い出す。海中の闇にばらまかれた蒼い小さな光。水面の下にある、もうひとつの銀河。
 それ以外のことを考えると、自分が消えてしまいそうになる。
 少しでも意識をそらしてしまうと、すぐさま唯那の言葉が脳裏によみがえる。希望も夢も持てない、存在している理由すら見つからない自分自身を、思い出してしまう。
 ……ううん、違うよ。
 ……違う。あたしは、海のほたるを見に行くんだ。
 薫平といっしょに、海のほたるを見るんだ。
 今はそれだけが、未沙がここに存在する理由だった。
 ……たぶん、生まれて初めて見つけた、たったひとつの存在理由だから。
 それ以外のことは、なにも考えない。
 時間の流れも、空間の感覚も、もうはっきりしない。
 なにもかもがひどく頼りなく、こころもとなくて、まるでうつらうつらと夢でも見続けているみたいだ。
 自分が海を目指して遠い距離を移動しているということも、自覚できない。
 薫平が予定通りに電車を乗り換え、駅構内を歩くから、彼に取り憑いている未沙も、その動きに引きずられるかたちで移動してはいるのだろう。
 けれど未沙の目には、駅の風景も乗り換えた電車の様子も、ただぼんやりとした影絵のようにしか映らなかった。
 はっきりと自分自身を意識しようとすれば、とたんに全身に痛みが走る。不安、孤独、自己嫌悪。それらの思いは、未沙の全身を干涸らびさせ、乾いた泥みたいにぽろぽろと崩れ落ちさせていくようだった。
 おまえなんかに、できることなどなにもない。おまえなんか、とっくに終わっちゃってるんだ。未沙を内側から責める声は、もう唯那の声ではなかった。未沙自身の中からわき出るささやきだった。
 こんな苦しみをこらえてまで、ここに存在し続ける意味がどこにある。
 それよりは、楽になってしまえ。
 みんな手放して、忘れて、消えてしまえ。おまえが消えてしまっても、誰も困りはしないんだから。
 ともすれば心が負けて、そのささやきに従ってしまいそうになる。
 ……消えたくないよ。まだ消えたくないよ。
 だって、見たいんだ。
 薫平といっしょに、海のほたるを見たいんだ。
 人としてこの世界にあり続けることは、こんなに苦しい。つらくて、切なくて、泣きたいことばかりだ。
 命はみんな、重たくてつらい。
 それでも。
「がんばれ、未沙」
 ときどき、薫平が低く声をかける。
 人の声も電車の走行音も、すべて機械で作った抑揚のないノイズみたいにしか聞こえなくなった中で、ただ彼の声だけが、たしかな意味のあるものとして響く。
「もうちょっとだから。あと少し、がんばれ」
「うん……」
 未沙も懸命に返事をする。
 ……どうして薫平の声だけ、聞こえるんだろう。
 なにもかもが灰色のうすぼんやりした影法師にしか見えない中で、どうして薫平の姿だけは、はっきりとあざやかな色彩を持って見えるんだろう。
 その疑問に、やがて未沙は、ふと答を見つけた。
 ……ああ、そうだ。
 ……だって、見たいんだもん。
 薫平の顔が見たい。声が聴きたい。未沙が、そう望んでいるから。
 幽霊の未沙は、精神のありようだけがすべての感覚を支配する。
 だから。
 ……まだ、薫平のそばにいたい。
 いっしょにいたい。
 消えたくない。
 お願い。もう少し。あと少しだけ。
 薫平と、二人でいたい――!
「未沙」
 優しい声が、低く未沙の名を呼んだ。
「見えるか。眼、開けられるか?」
 その言葉に従い、未沙はゆっくりと眼を開けた。
 真っ暗な、澄みとおった空に、満天の星。
 息をするたびに、星がこの胸に飛び込んでくるみたいだ。
 潮騒が聞こえる。よせて、かえす、波の音が、子守歌のように未沙を包む。
 冷たい、湿った風をほほに感じる。髪が吹き乱されていく。
 嗅ぎ慣れない、これは潮の匂い。
 空と海とが融けあって、境目も分かたれぬ水平線。それでもコンクリート桟橋の突端は黒々と浮かび上がり、その元に白い波頭が散り砕ける。
 人工の光はなにもない。
 どこまでも遠く、広い、夜の海。
「……ああ――!」
 自然に、声が出た。
 こんなにもたくさんの星を見上げるのは、はじめてだった。
 ……遠くまで来たんだ。未沙は思った。
 時間や空間の単位では言い表せない、この気持ち。ただ、本当に遠くまで、とくりかえし胸の中でつぶやく。
「海だ」
 薫平が、言った。
 薫平の姿が見える。長い手足と、初めて逢った時と同じ、ちょっとヘンなクセがついた短い黒髪。ぽちぽちっと浮かぶ、にきびの跡。すべてがはっきりと、たしかな存在感を持って、未沙の目に映っている。
 その優しい力強い眼は、なぜか今にも泣き出しそうに見えた。
「見えるか」
 まっすぐに、広がる海岸を指さして。
「海の、ほたるだ」







                               ACT 5 いのちのほたる

 ……やっと、来たね。
 ……ここまで、来ることができたんだね。
 胸の中にわきあがる思いは、言葉にならなかった。
 未沙は立ち上がった。
 風に向かってこころもちあごをあげ、大きく息を吸い込む。少しでもこの空気を、今、自分がここにいることを、身体全部で感じ取れるように。
 ゆるやかな弧を描く砂浜に沿って、無数の蒼い小さな光が散らばっている。
 海流に乗って浮き上がり、波に押されて砂浜に打ち上げられてしまった、小さなホタルイカたち。またたき、ふるえ、消えていく。
 あまりにもはかなく、力弱い光だった。けれどひとつが消えればまたひとつが、身替わりのように小さな命の火を灯す。波打ち際で海水にゆすられ、力つきてそのまま海へ還るもの、さらに大きく打ち上げられ、砂にまみれるもの。みな、懸命に最期の命の輝きを放っている。
 声なき声が満ちている。なにかを懸命に叫んでいる。
 はかない、けれど強くたしかな命の群れが、砂の上に一夜限りの小さな銀河を造り出していた。
 薫平はゆっくりと歩き出した。
 スニーカーの硬い靴底の下で、さくり、さくり、と砂が鳴る。
 砂浜には、昼間歩いた誰かの足跡が、まだはっきりと残っていた。
「未沙」
 薫平が振り返った。
 未沙に、手をさしのべる。
 未沙は黙って、その手に自分の手を重ねた。
 無論、未沙は薫平にさわれない。ただ手をつなごうとしても、お互いの手は立体映像のようにすり抜けてしまうだけだ。
 だから、空中で手を止める。薫平の手とちょうど重なり合う位置で。
 薫平の手のひらの感触は、未沙の手にはつたわってこない。自分の肌で薫平を感じ取ることができない。
 それでも。
 底冷えのする早春の夜気の中、差し出した手がほのかにあたたかくなったような気がした。
 薫平の体温が、この手へつたわってくるようだ。
 薫平もその手をはなさなかった。空中で手を止めて、未沙の手を受けとめてくれた。
 そのまま二人、また歩き出す。
 ホタルイカたちを傷つけないよう、足元に気を付けながら。
 ふと気づき、未沙はいったん立ち止まった。
 ピンヒールのブーツを脱ぎ捨てる。ソックスも脱いで、まるめてブーツの中に押し込み、裸足になる。
 素足で踏んだ砂は冷たく、とてもやわらかかった。
 足の指のあいだで、さらさらと砂がくずれる。その感触もはっきりと感じ取ることができる。
 薫平も同じようにスニーカーを脱ぎ、素足になった。片手にまとめて靴をぶらさげ、もう片方の手で、また未沙の手を支えてくれる。
 そして、またゆっくりと、歩き出す。
 まるで、星の中を歩いているみたいだった。
「みんな……死んじゃうの?」
 未沙はつぶやいた。
「ああ」
 薫平はうなずいた。
「ホタルイカはもともと、深海の生きものなんだ。水面近くにあがってくるのは、産卵の時だけだ。――これはみんな、卵を産み終えた雌ばかりなんだ」
「……お母さん、て、こと?」
「そうだよ」
 薫平がかすかに笑っているように、未沙には思えた。
「なにかで読んだ。この時期、海面に浮かぶこの光は、ホタルイカの母親が生まれたばかりの我が子に贈る、最初で最後の光なんだって」
 ホタルイカの雌は産卵期になると、海流に乗って冷たい深海から水面近くまでやってくる。そしてその海流に向かって一斉に産卵する。新たな命を海へ送り出すのだ。
 そうして産卵を終えた母親たちは、すべての力を使い果たし、また海底へ還っていくのだという。命をなくしたむくろになって。
「あれは、母親たちが命を賭けて、我が子の未来を照らす灯火なんだ――」
「そんなの……。そんなの、意味ないよ……」
 未沙はつぶやいた。
 あふれ出す涙に、声がかすれる。
「だって子供たちは、もう海流に乗って、どこかへ行っちゃったんでしょ? お母さんたちがいくら光を灯しても、もう赤ちゃんたちには見えないよ」
 どんなに光を灯しても、精一杯祈り続けても、それは大海原へと旅立っていった子供たちには、もう届かない。母親たちの想いを受け取る子供たちは、もうここにはいないのだ。
 どんなにがんばっても、最期の命を振り絞っても。
 誰もそれを見ていない。気づいてもくれないのに。
「海が、見てるんだ」
 ぽつりと、薫平が言った。
 真っ暗な海を見つめて。
「海が、見ている。海が覚えていてくれる」
 その視線を追いかけて、未沙も海を見た。
 暗がりに目が慣れたのか、最初はわからなかった水平線が、今はぼんやりと浮かび上がって見える。
 潮鳴りが響く。風が変わる、季節がめぐる、と、ささやいている。
「海は忘れないよ。精一杯生きた命を、絶対に忘れない。だから春が来るたびに、海流を起こしてホタルイカたちを水面近くまで連れてくるんだ。毎年、毎年、精一杯生きるお母さんたちのために」
 そうして、命のいとなみは続いていく。この海に抱かれて、母から子へ、そしてまたその子供へと、生命は受け継がれてゆく。
「海だけじゃない。空も、大地も、みんな覚えてる。どんなに無力でも、ちっぽけでも、精一杯生きてきた命のことを、この世界は絶対に忘れない」
 並んで立つ薫平と未沙のまわりに広がる、この世界。
 たとえば空。たとえば風。この目に映り、この肌に感じるものすべてが。
「あたしも……?」
 未沙はつぶやいた。
 ……あたしのことも、覚えていてくれるの?
 未沙がこのまま消えてしまったら、思い出してくれる人なんて、ほとんどいないだろう。学校のクラスメイトや近所の人なんて、一年も経てば未沙の顔すら忘れてしまうにちがいない。
 パパとママは、未沙を忘れずにいてくれるだろうけれど、それも二人が死んでしまったら、そこでおしまいだ。
 世の中に、未沙が生きていたあかしなんて、なにひとつ残らない。
 それでも?
「人間なんて、みんな、そんなもんなんだよ」
 薫平が返事をした。まるで未沙の心の中が、全部聞こえているみたいに。
 いや、本当は聞こえていたのかもしれない。薫平には、未沙が思うこと、言葉には出せなかった怒り、哀しみ、淋しさ、全部。最初から聴こえていたのかもしれない。
「歴史に名前が残る人間なんて、ほんのひと握りだ。大多数の人は、みんな、死んだら忘れさられていく。覚えているのは家族や、わずかな身近な人たちだけだよ。百年も経てば、そういう人たちもみんないなくなって、もう誰の記憶にも残らない。それでも……」
 二人は、空を見上げた。
 満天の、星空。
 銀河が白く流れている。
「世界は、覚えてる。精一杯生きて、この世界に足跡を残そうとした命のことを」
 世界は、忘れない。
 あたしや、あなたのこと。
 この世界に生きる、すべて。
 誰が忘れても。どんなに時が流れても。
「薫平」
 未沙は、薫平の名を呼んだ。
 けして大きくはなく、けれど聴く者の胸にたしかに響く、力強い声だった。
「ありがとう。ここまで連れてきてくれて」
 薫平はなにも言わなかった。
 ただ笑って、未沙を見つめている。
 つないだ手から、彼のあたたかな体温が流れ込んでくる。
「あたし、行くね」
 そして未沙は自分から手を離した。今までずっと未沙を支えてくれていた、薫平の手を。
 ……行かなくちゃ、いけないんだ。
 ここから先は、あたし一人で。
 自分の力で。
「ね。あんたもだよ、唯那」
 ゆっくりとふりかえった先には、黒っぽい色でまとめられた、スレンダーな姿。
 濃いめのメイクは、涙で流れて、すっかりぐちゃぐちゃになってしまっている。その白い顔の輪郭は少しぼやけ、未沙と同じように半透明だ。
 新幹線の中で感じたような傲慢な印象、鋭い激しい悪意は、今の唯那からはもう微塵も感じられなかった。
 今、未沙の前に立つ唯那は、姿形こそティーンエイジャーの女の子だけれど、まるで生まれたばかりの赤ちゃんみたいに頼りなく、力ない存在に見えた。
「なんでよぉ……っ」
 泣いて、しゃがれた声で、唯那は言った。
「なんであんただけ、そんな顔してんのよ。ずるいよ。なんで笑ってられんだよお……っ」
 小さな子供みたいにこぶしで目元をぐしぐしとこすり、唯那は泣きじゃくる。
 ……ああ、そうか。
 つぶやくように、未沙は思った。
 ……あんたも、独りぼっちだったんだね。今まで、ずっと。一人きりで、泣いてたんだね。
 ……淋しくて、不安で、どこにも行き場がなくて。でもこんなふうに泣いてる自分が、みっともなくて、許せなくて。
 みんな、同じだ。
 誰もみんな、他人の心がわからなくて、自分自身の思いすら、自分で把握しきれなくて。
 メールに書かれたきれいで気取った言葉ではなく、今、ここで手放しで泣いている唯那が、本当の唯那なのだ。
「ねえ唯那。見てみなよ。きれいだよ。足元にも星があるみたい」
「見えないよっ! 見えない、そんなの……!!」
 かたくなに首を横に振る唯那に、未沙は一歩、近づいた。
 手を伸ばし、唯那の肩にふれる。
「なによッ! あんたのせいじゃん!! みんなあんたが悪いんじゃない!!」
 唯那は叫んだ。でも、未沙の手を払いのけようとはしない。
「あんたのせいだ。あんたが……あんたさえいなければ、あたしだって、こんなことにならなくてすんだのに……!!」
「――うん」
 未沙は低くうなずいた。
 今なら、唯那の気持ちもわかる。
 誰かを恨んで、憎んで、自分の不幸をみんな他人のせいにして、自分に言い訳する。あたしのせいじゃない、あたしはなにも悪くない、と。
 だって、ほかに納得できる方法が見つからないから。
 ……そういう時って、あるよね。
 唯那は、すべてを未沙のせいにすることで、そうやって未沙を恨み続けることで、消えてしまいそうな自分を必死に保ってきたのだろう。
 泣いて、わめいて、唯那はとても格好悪かった。
 でも、それは未沙も同じだ。その格好悪さが、二人がここに存在するあかしなのだ。
 好きなだけ泣けばいい。そうやって涙といっしょに、胸の奥底に溜まるものみんな、吐き出してしまえばいい。
 ……そのあいだ、そばにいてあげるよ。
 薫平がずっと、未沙のそばにいてくれたように。
 ……今度はあたしが、あんたのそばにいてあげる。
 世の中には、怖いことばっかりだね。なにもかも、納得いかない、思い通りにならないことばかりだよ。生きているだけで、人はみんな、つらくて、淋しくて、哀しくてしかたがない。
 だからね。
 人は、人と寄り添いあいたがるんだ。
 誰かにそばにいてほしいと、願うんだ。
 たとえ分かり合えなくても、言葉が通じ合わなくても。
 ただ、そばにいてくれるだけでいいからと、願うんだ。
 そして、歩き出すんだよ。
 誰のためでもなく、自分自身のために。
 この世界に、自分だけの足跡をしっかりと刻みつけるために。











                            
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